新潟柳都古町芸妓
雪国の湊町・新潟
今もなお息づく雪国ならではの「おもてなしの心」に触れてみませんか
【古町芸妓】 ふるまちげいぎ
信濃川と阿賀野川の二大大河に開けた新潟市は、かつて市内にいくつもの堀が張り巡らされた水の都でした。
堀に沿って幾千本もの柳の木が植えられ、その柳の木が作り出す景観の美しさから柳の街、柳都(りゅうと)と呼ばれました。
その柳が作り出すもう一つの世界が花柳界。新潟古町芸妓は、京都の祇園、東京の新橋の芸妓と並び称されていました。
新潟古町芸妓とは
200年の伝統を誇る新潟古町芸妓は、みなとまち新潟を代表する文化のひとつです。
新潟ならではの美味と歴史を味わうことのできる料亭の数々と、芸妓たちの質の高い唄や踊り、鳴り物の芸が新潟古町の名を高めてきました。新潟弁混じりのやさしい語り口でのもてなしは、今もなお人々の心をなごませています。
新潟古町芸妓の発祥は、江戸時代にまでさかのぼります。その時代、新潟は日本一の米産地を背景に西回りの北前航路の拠点として出船入船でにぎわい、多くの人々が交流する町でした。粋を凝らした料亭が軒をつらねる新潟には、文人墨客や政財界の主役達が日本中から集まってきました。訪れる人々をもてなす中心は芸妓たち。芸妓たちの新潟らしい心情と美しさは、堀と柳の風光と相俟って、「新潟情緒」として全国に伝えられたのです。最盛期には300人あまりの芸妓たちが華やかに活躍していたといいます。
令和の世になり芸妓が少なくなった今もなお、芸の数々そしてもてなしの心は受け継がれ、訪れる多くの人々を魅了しています。
現在は、お座敷だけではなくコンベンションでの舞の披露や観光ポスターのモデル、県外へのプロモーション活動など幅広く活躍しています。また近年、芸妓体験ツアーの開催や新潟柳都古町芸妓ブランドの誕生・商品化、柳都支援機(売上の一部が新潟柳都古町芸妓文化の伝承・発展のために当てられる自動販売機)が誕生するなど話題がつきません。新潟古町芸妓は新潟を語るに欠かせない存在といえます。芸妓たちは、さらなる芸と粋を身に付けるため、踊りや鳴り物、三味線、唄など芸のお稽古に加え、素養として必要なお茶などのお稽古に日々励んでいるのです。
新潟古町芸妓は大きく2種あり、長いキャリアを持つ一本さんと言われる「お姐さん」と、柳都振興株式会社の社員、通称「柳都さん」に分けられます。
芸妓は、役目によって立方(たちかた)と地方(じかた)に分けられます。それぞれ、立方とは舞踊を主にする者、地方は唄や語り、三味線や鳴物の演奏をうけもつ者です。地方を一人前にこなせるようになるには10~20年の修練が必要なため、通常は立方を卒業した芸妓が地方にまわります。
柳都とは
新潟にはかつては堀がはりめぐされ、その堀端の柳の下を座敷に向かう芸妓が通るという美しい風景がみられました。
今では堀は埋め立てられ柳が残るばかりですが、この風情ある町にふさわしい呼び名が残っています。それが「柳都」です。